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Liuさんからの質問「宇宙を創ったエネルギーとそのバランスが神だと思っているのですが、違っていますか?」

「教えて!牧師さん」29


■(前略)・・そして、私は宇宙を創ったエネルギーとそのバランスが神だと思っています。
 この小さな地球のみの神ではなく、宇宙全体の神であって私はもうずっと前からその神を信じているのですが、違っているのでしょうか?
 クリスチャンではないのですが、神を信じているのです。
 勘違いしているのでしょうか?


 Liuさん、こんにちは。
 うれしいメールありがとうございました。
 このブログを通して、聖書を読まれるようになったとのこと、ブログやってて良かった~!と思いました。

 この出会いに、感謝です。

 さて、この度はご質問ありがとうございます。

 宇宙を創ったエネルギーとバランス=神、という捉え方は、聖書と照らし合わせて、別段間違っているとは思いません。

「ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。
 そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」
  ネヘミヤ9:6


「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」
  使徒の働き17:28


 神によって、全宇宙は創られ、神によってすべては今も保たれている、と聖書は教えています。

 Liuさんは、そのような神を聖書を読む前から信じていらっしゃるのですね。
 私も今まで、そういった方にたくさんお会いしてきました。

 案外(?)理系の方に、特にそういう方が多いように思います。
 先入観無く自然界を観察する中で、創造主の存在を信じるに至る方は少なくないようです。

 そういう意味で、自然界は「字の無い聖書である」と言われたりします。

 ただし、聖書はさらに深く神について私たちに情報を与えてくれています。
 そこから分かることは、「人格を持たれる存在」「人間との関係を持って下さる存在」である、ということです。
 神は人間と「ことばによるやりとり」をしてくださる方なのです。

「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、
 あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
 これは天にあるのではないから、
 『だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか』
 と言わなくてもよい。
 また、これは海のかなたにあるのではないから、
 『だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか』
 と言わなくてもよい。
 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、
 あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」
  申命記30:11-14


 ことばによって、人は神の御心を知ることができます。また、祈りによって、自分の思いを神に伝えることもできます。
 ことばのやりとりという具体的な方法で、私たちは神と人格的な交わりを得ることが出来るのです。
 これは、Liuさんが言われるように神が宇宙全体の神であることを考えると、途方もない恵みとしか言えない出来事です。

 なぜ、このようなことが可能になるのか、罪の問題と、それを覆う神の愛について解き明かしているのが聖書です。
 また、これらの聖書の記述は、考古学的な研究と、キリストの歴史的実在性という出来事によって信憑性が保証されています。

 Liuさんが信じて来られた神が、どのように愛にあふれた方なのか、宇宙を創られた神が今この時もどのようにLiuさんと個人的に関わって下さるのか、そのことをこれからも知って頂けたら、それに勝る喜びはありません。

 今は、身近にキリスト教との関わりはないとのこと、もしも聖書・キリスト教の疑問などお有りでしたらお気軽にご質問下さい。

※「教えて!牧師さん」は、駆け出しの牧師Stephanが、
自分の勉強のために受け付けている質問コーナーです。
質問はブログ右側のメールフォームよりお送りください。
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| 教えて!牧師さん。 | 14:29 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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Fukukoさんからの質問「マタイ7章6節”聖なるものを犬に~”の意味は?」

「教えて!牧師さん」28


「聖なるものを犬に与えてはいけません。
 また豚の前に、真珠を投げてはなりません。
 それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」
   マタイ7:6


 Fukukoさん、ご質問ありがとうございます。
 キリストの説教の中で、割と唐突に出てくる短い聖句で、はてどういう意味だろう、と思わされるところですね。この聖句に関する解釈も諸説あります。

 それにしても、「豚に真珠」ということわざが、実は聖書からだったなんて多くの人はご存じないでしょうね。

 さて、「聖なるものを犬に与えてはならない」と「豚の前に、真珠を投げてはなりません」という二つの禁止命令は、一つのことを表していると思われます。
 二つの文を連ねることで、一つのことを強調するという表現方法は、聖書の中でたびたび用いられます。

 「聖なるもの」というのは、祭司以外が食べることを許されなかった聖別されたパンの事を指していると思われます。
 また、「真珠」というのは、他の個所を見ると救いに関する真理と解釈できます。

「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、
 行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」
   マタイ13:45-46


 また、今回の個所では日本語としては訳されていませんが、「あなたの真珠を豚の前に・・」というのが直訳です。

 また、犬や豚は、当時の価値観では卑俗を表す時に用いられた用語でした。

 これらのことから、「あなたが持っているかけがえのない救いの真理を、卑俗なことがらと混同してはならない」というのが、この聖句のおおまかな意味だと思われます。

 たとえば、6節の直前の5節までは人を裁いてはならない、という倫理的な教えがなされています。
 その流れを受けての6節だと考えるなら、人間関係において容易に起こりうる、争いやさばきあいにおいて、クリスチャンは同じレベルに堕してはならない、と解釈できるでしょう。
 愛し合いなさい、という神の命令を心の芯として、人を責める前に、まず自分自身が罪びとでありながらキリストに赦された存在であることに目を向けるべきなのです。

 聖なるものは、聖なるままにしなくては、なりません。
 私たちは卑しい思いで、神の御言葉を自分の願望に引き寄せ、都合の良い解釈をしようとしたりします。当時の聖書学者も、聖書のことばを自分たちの正当化のためや、違うグループの人を攻撃するために解釈していました。
 それは、宝石を獣のえさにしようとするようなもので、価値あるものを台無しにしてしまうのです。
 自分の願望やこだわりを置いて、聖書が本当に言っていることを受け止めることがなくては、聖書を読んでいることになりません。

 せっかくキリストが与えて下さった、神との絆というもっとも価値ある恵みを、無駄にしない歩みをしたいですね。

 このように書くと、キリスト教って、世の汚れを、上から見ろしているような印象を持たれるかもしれません。
 決してそんなことはありません。

 イエス・キリストの十字架は、まさに、投げ捨てられた宝のような献身でした。
 人々によって、神の子である方は、踏みにじられ、引き裂かれました。
 キリストは、ご自分がそのような目に会う事をご存知の上で、人として生まれて下さったのです。
 その原動力は、永遠に変わることのない愛です。

 この聖なる愛を知った人は、世や世の人を見下すべきではありません。
 心の内に生きて働くキリストの愛を宝として、しっかりと保つことが勧められていると思います。

 あまり明快な回答とは言えませんが、少しは理解のお役に立てたでしょうか。
 ご質問ありがとうございます。
 またいつでも、ご質問ください。

※「教えて!牧師さん」は、駆け出しの牧師Stephanが、
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ララさんからの質問「出エジプト記4章24節の出来事はなぜ・・?」

「教えて!牧師さん」27

■出エジプト4章24節です。
 「さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。
  主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。」
 いきなりの展開になぜ?と思ってしまい、しばし立ち止まって考え込んでしまいました。


 ララさん、こんにちは、お返事遅くなりました。

 さて、今回の個所ですが、確かに「なぜ?」と思うところですね。
 神様の意図はどこにあったのでしょうか。

 今回の個所から連想される聖書の個所が二か所あります。
 民数記22:22-35とヨシュア5:13-15です。
 異邦人の占い師バラムや、エリコの町に攻めに行くヨシュアの前に、神の使いが立ちふさがります。
 モーセも含めてそれぞれ、神様の導きの中で出かけていくのに、危険にさらされたり、足止めさせられるのです。

 バラムの場合は、やはり彼の心の中に神様に従いきれない心の揺らぎがあったのではないか、と推測されます。
 また、ヨシュアの場合は、改めて神にだけお仕えする思いを再確認される必要があったのではないか、と思われます。

 これらの個所と重ねて考える時、モーセとその家族は、出エジプトの大事業を前にして、志を確かにされる必要があったのではないか、と考えられるように思うのです。
 モーセと妻チッポラは、その息子にユダヤ人としての割礼を施すことをしていませんでした。
 しかし、この時チッポラは、今こそ息子に割礼を施さねばならない、と理解しました。彼女自身が、今回の出来ごとに関して、心が定まりきっていないことを自覚していたのではないか、と思わされます。
 神の半ば強制的な促しによって、彼ら家族は神への献身に至った、と理解できはしないか、と思います。

 私は、今回の個所から、「御心にかなった道を選択していても、神はなおも心を問われる」ことを教えられるように思います。
 何を選んだ、ではなく、どんな思いで選んだか、を神は見られる方なのだと思います。

 印象的なこれらの記述から、自分自身の歩みが「定まった心」で為されているかどうかを問われる思いです。

 簡単ですが、参考になるお答えになっていることを祈ります。

 ララさんの聖書との歩みが、これからも祝されますように。

 また、いつでもご質問下さい。

注)原文ではモーセという名前は出て来ず、「彼」となっています。4:23の流れを受けて、「彼」をモーセではなくて、モーセの長子ゲルショムと理解する解釈も不可能ではありません。そうなると、割礼の重要性に重点がおかれる内容になり得ます。ただ、特に説明がなく「彼」と出てくる以上、モーセと理解するのが自然でしょう。

※「教えて!牧師さん」は、駆け出しの牧師Stephanが、
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ララさんからの質問「マタイの福音書 19章27~28節 をすっきりイメージして理解をしたいのですが・・・」

「教えて!牧師さん」26

■きょう、とても心にひっかっかった箇所があります。今までは何となく読み過ごしていたのですが。
 マタイの福音書19章27~28節
 ここをすっきりイメージして理解をしたいのですが・・・
 解説をしていただけたら嬉しいです。


マタイの福音書 19:27-28
27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。


 ララさん、こんにちは。
 そして、お返事遅くなり申し訳ありません。
 今回のご質問はいわゆる「終末論」に関わることでもあり、私にとってはなかなか難しい内容です。
 すっきりしたイメージを差し上げることは、出来ないかもしれませんが、がんばってみます。



■さばく=王権

 まず、「さばく」という言葉の意味について。これは、「王権」を表す用語であると思われます。
 ルカの福音書で同じことがらを取り扱っている個所(並行個所)には、こう記されています。

「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。
 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。
 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」
  ルカの福音書22:18-30


 イエス・キリストが持たれる王としての権威を、分け与えられる、というのが今回の箇所の意味するところであると思われます。
 そして、もうひとつ注目しておきたいことは、この王権が与えられることの根拠として、「キリストへの従順さ」が挙げられている、ということです。
 不従順のゆえに、キリストに背を向けるイスラエルの民(十二部族)に対して、従順のゆえにキリストと共に治める側に着く十二弟子。そこに聖書の強調点があるように思います。
 「十二部族」とか「十二弟子」という言葉に目を引かれますが、天の御国において、イスラエルの民や十二使徒が特別な扱いを受けるのかどうかは、明確には解答できません。

■クリスチャンも王権が約束されています

 聖書の他の箇所を見ると、キリストと共に統べ治める約束は、十二使徒だけではなく、全てのクリスチャンに与えられていることが分かります。

「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
 私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。
  第1コリント 6:2-3


 終末のさばきの預言が記されている黙示録でも、十二使徒たちによるさばきは記されません。
 
「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。
 また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。
 彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」
   黙示録20:4


 この「彼ら」が何者かということは記されていませんが、文脈からすべてのクリスチャンたちと見ることができます。十二使徒もその中に含まれていると思われます。

 このような記述から考えると、十二使徒だけが、天の御国において特権的な立場に就くとは、言い難いように思います。

■キリストへの従順の模範として十二使徒

 一方で、黙示録にはこんな十二使徒に関する記述があります。

「また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
  黙示録21:14


 天の都の土台に十二使徒の名が刻まれているのです。
 これは、以下の聖句を連想させます。

 「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
   ヘブル11:10

 「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」
   エペソ2:20


 十二使徒は、教会、そして天の都の土台としての役割を果たす存在です。
 そして、これは、彼ら一人一人の人物というよりは、最初に見たように、彼らによって現わされた「従順さ」こそ、信仰の土台である、ということを意味しているのではないか、と思うのです。
 これは、マタイ16:15-18において、ペテロの信仰告白が教会の土台と宣言されたことにも合致します。

 このようなことを考えると、冒頭の聖句は、キリストへの従順ゆえに天の御国の王となる、という約束のことばであり、特に十二使徒はその象徴的存在である、と解釈できるかもしれません。
 
■イスラエルへのこだわりと誠実
 それにしても、なぜ、冒頭の聖句では「イスラエルの十二の部族」と限定的に記されているのか、という疑問が残りますね。
 この種の表現は、黙示録などでも度々出てきます。(十四万四千人など)
 私は、そういう所に、神様のイスラエル民族への誠実を思います。
 イスラエルの民への特別な警告や言及は、神がイスラエルを忘れていない、ということを物語っています。

 アブラハムとの契約から始まり、十戒によるモーセとの契約を結んだイスラエルを、神は永遠に見捨てずに、語りかけていらっしゃるのだと思います。
 旧約においても神にそむき続け、キリストを十字架にかけた民族でもあるのに、神は一度約束を結んだ以上、どこまでも誠実で有り続けるお方なのではないか、と思います。

■従順こそ

 そんな、誠実な神が、私たちに御国での王権を約束されている、と思うと、本当に大きな恵みが用意されているのだな・・と思わされ、感謝せずにはいられません。
 しかし、キリストが強調されているのが従順であることは、クリスチャンが忘れてはならないことだと思います。
 マタイの福音書も19章に続く20章では、「皆に仕える」謙遜が教えられています。

 神の誠実と、大きな恵みの約束の中で、与えられた生涯をキリストと共に愛のために生きていけるといいですね。

 ・・さて、お答えになったかどうか、まったく自信がありませんが、私なりに解説を試みてみました。
 何かありましたら、またいつでもご質問下さい。

 ララさんの聖書との歩みの上に、恵みが豊かにありますように。

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Akioさんからの質問「バプテスマ(洗礼)の起源は?」

「教えて!牧師さん」25

■バプテスマっていつから始まったんですか?確か旧約聖書には出てこなかったように思います。

 Akioさん、ご質問ありがとうございます。

「・・・バプテスマのヨハネが荒野に現れて、
 罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、
 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」
  マルコ1:2-5


 バプテスマのヨハネがエルサレムの人々にヨルダン川でバプテスマ(洗礼)を授けたことが、福音書の初めに出てきますが、確かに、旧約聖書に「洗礼」という言葉は出てきませんね。(バプテスマ[洗う:バプティゾーの名詞]はギリシャ語です)

 でも、関連する出来事はいくつかあります。一つは、水のきよめの儀式。
 「レビ人をイスラエル人の中から取って、彼らをきよめよ。
  あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。
  罪のきよめの水を彼らに振りかける。」民数記8:6-7


 そして、川での洗礼をイメージさせるナアマン将軍の出来事。

 「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、
  ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、
  幼子のからだのようになり、きよくなった。」
    第2列王記5:14


 こういう個所から、水によるきよめのしるしや沐浴という習慣・感覚は、旧約聖書の時代にもあったと言えます。

 さらに、中間時代(旧約聖書と新約聖書の間の400年間)には、ユダヤ教への改宗者が、きよめのしるしとして水に浸(つ)かる、という習慣が生まれたようです。
 また、ユダヤ教の中のクムランというグループ(死海写本はこの人たちによるものです)は、自分たちをきよく保つために水浴を繰り返していたことも分かっています。
 「バプテスマ」が新約聖書の時代には、すでに新奇なものでなかったことは、当時の律法学者がバプテスマそのものについては何も非難してないことから推察されます。

 こういう流れの中で、バプテスマのヨハネは、「来るべきメシヤの到来の心備えとしての、水による悔い改めのバプテスマ」を提唱し、洗礼を施したと思われます。

 以上、お答えになったでしょうか。
 Akioさんの聖書との歩みが、これからも祝福されたものでありますように。

 また、なんでもご質問下さい。
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にゃおうさんからの質問「未来のことは神さまの計画のなかにあるのなら、祈ることの意味は?」

「教えて!牧師さん」24

■ふと考えたんです。神さまの御手には私たち人間について様々な計画があると思います。時間的に未来のことは神さまの計画のなかにあるのでしょうか。だとしたら祈ることの意味がなくなるような気がしたのですが、どうでしょう。

 にゃおうさん、こんばんは。
 とても大きなテーマの質問ですね。

 確かに、神様は御計画をお持ちですよね。

 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
  --主の御告げ--それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
  あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 エレミヤ29:11


 神様には神様の計画があって、それは私たちの知るところではありません。
 私たちに未来のことは分かりません。でも二つのことは知っています。
 「どなたが未来を握っておられるか。」そして「それは私たちのための最善の計画だ」ということ。

 こうして考えると、私たちは「自分たちの祈りの力で未来を変える」必要はありませんね。
 それは不可能なことだし、しかも神様の最善以上の未来は無いのですから。

 でも、だからと言って、祈ることの意味が無くなるわけではないと思います。
 お祈りって、「願い事」だけではないからです。

 ちょっと、祈りの種類について書いてみますね。

 1.相談・・・「天のお父様、にゃおうさんからのこの質問、どう答えたらいいんでしょうか・・?」
 2.感謝・・・「今日も一日ありがとうございました。」
 3.訴え・・・「神様、あのことが正直つらいんです・・。」
 4.告白・・・「心の中で、あの人のこと恨んでます・・。」
 5.とりなし・・・「神様。○○さんが、今も平安の中過ごしていますように。」
 6.明け渡し・・・「神様。試験の結果は、あなたにお任せします。」
 7.悔い改め・・・「神様。こんな罪を犯してしまいました。キリストの十字架によって、お赦し下さい。」

 願い事以外にも色々ありますよね。祈りって豊かですね。

 さて、「願い事」の祈りについても、やっぱり「不要」とは言えないな、と思います。
 私もよく祈りで願う事をします。

 ただ、それは神の計画を変えてもらう祈りではありません。

 「あの事があなたの御心通りになりますように。」とよく祈ります。
 これは、願っているようで実は、「告白」であり、「明け渡し」なのです。
 ある事柄についての不安があって、祈りだします。でも、いろいろ祈っている中で、結局神様の御計画が最善だよなぁと思いだします。でも、次に別の不安が生じます。神様の計画が最善だとしても、自分の思いがそれを喜べなかったらどうしよう、と。神様との信頼が問われます。
 しかし、思い悩み、心を神様に向ける中で、次第に気持ちが整ってきます。神様の愛についての聖書の言葉を思い出したりします。
 そして、最後に「あの事があなたの御心通りになりますように。」と祈った時に、深い平安を得ます。

 「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。
  あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。
  神は、われらの避け所である。」 詩篇62:8


 「願い事」に聞こえても、そこには神様との会話があり、様々な祈りの要素があるのです。

 祈りは神様を変えることはありませんが、祈り手を変えます
 誰かの幸せを祈る中で、その人への愛が深まり、実際にその方のために自分が何を為すべきか、ということを示されたりします。
 ある人の救いを祈る中で、とても切ない思いに駆られ、はっと「私の事も神様はこんな風に思って下さっているんだ。」と気付かされたりもします。

 病の癒しの祈り等は、祈らずにはいられない、という時もあります。
 そして、その結果として癒されたりするときに、そのことで、どなたかが神様をあがめることにつながったりします。
 その場合は、「癒されることが計画」なのではなく、「祈った後に癒されることが計画」と言えるかもしれません。

 心を開いて神様に期待し、思いの丈を打ち明けて、ある時は耳を傾け、思いめぐらしながら、私たちは祈ります。
 願い事を一方的に押し付けるのは祈りではありません。それは、神様を利用することです。
 祈りは神様との「交わり」です。
 
 その「交わり」の中で、祈りの世界の豊かさ、神様の豊かさを味わっていけたら、と願います。

 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、
  感謝をもってささげる祈りと願いによって、
  あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
  そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
  あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
    ピリピ4:6-7

 うーん、お答えになったでしょうか。
 加えてのご質問も、歓迎です。

 おわりになりましたが、にゃおうさんの神様との交わりのために、祝福を祈ります。
 これは、「願い」ですね。でも、そう祈らずにはいられません。
 この祈りも神様の計画の内にあるのでしょうか。だとすると、神様が祈らせて下さるのでしょうね。
 そんな思いを込めて、「祝福がありますように」と挨拶したいと思います。

 またいつでもご質問下さい。
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ファニイさんからの質問「キリスト教に「女人禁制の山」というような思想はありますか?」

「教えて!牧師さん」23

■山に接していると、時に「女人禁制」と言うものに出会うのですが、キリスト教などでもそういう思想はありますか?

 隊長、ご質問ありがとうございます。
 女性をけがれた存在として見なすような思想は、キリスト教にはありません。旧約聖書には、それに類する記述もあるのですが、「きよさ」とか「けがれ」を追求していくと、結局のところ、男女の区別なく人は皆罪人であるという結論に行きつきます。

 イエス・キリストの十字架は、そのような人類全体のための身代わりの死であって、その救いに男女の差はありません。

 「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
  バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたは
  みな、キリストをその身に着たのです。
  ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。
  なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」
   ガラテヤ3:26-28
 
 これをキリスト教思想における男女観の土台と思って頂いて差し支えありません。

 とは言え、広い世界には様々な教会があります。
 復活祭に近くの教会同士がロケット花火を撃ち込み合う、というお祭りすらあるわけで、女人禁制のキリスト教の山も有ったりして、と思って探してみたら、ありました。
 ギリシャ正教(ロケット戦争の教会と同じです)という宗派の聖地とされているアトス山(2,033m)は、国家的な組織をもって独立している男子修道院群の自治体(アトス自治修道士共和国)らしく、1,406年以来女人禁制だそうです。この山がある半島は岸から500m以内に女性は入れないそうです。(wikipedia

 この女人禁制(男子でも単独の未成年者は禁止)がいかなる理由のものかは定かではありません。wikipediaの記述では、「禁欲的な修道士たちにとって女性とは神に仕えるべき道を迷わせてしまう存在であった。」と男性の弱さゆえ、とも取れなくはないのですが、それでは、「女性を乗せた船は「聖地を汚さない」ために、アトス半島の岸から500m以内に近づくことができない」という記述と整合しません。また、家畜の雌も(猫は除く?)入国できないなど、謎の要素が色々あります。
 こういう情報については、ネットの情報というのはあまり当てに出来ない部分もあるのですが、さりとて他に適当な資料が手元にありません。
 
 それにしても、アトス山、かっこうのいい山ですね。中世以来の自然が手つかずで残っているそうですが、女性に限らず、一般観光客の入山(国)もかなり制限されているようです。

 ということで、キリスト教的な思想からは「女人禁制」はナンセンスだと思いますが、長い伝統を持つ例外事項があるということでしょうか。日本の山の女人禁制の現状と近いものがあるかもしれませんね。

 お答えになったでしょうか?
 また、いつでもご質問下さい。

※神学生時代の仲間が、アトス山の女人禁制の歴史について、調査をして補足してくれました
「14世紀ころのアトス山修道院は、オスマントルコの支配下で、この世的には恵まれていましたが、霊的には堕落が進んでいました。
 1402年のアンゴラ(アンカラ)の戦いで、オスマントルコが敗北したため、アトス山は、ビザンチン(東ローマ)帝国の支配下に復帰します。
 この機会に、修道院の霊性回復のための規則書が、時の東ローマ皇帝マニュエル2の名前で出されました(添付pdfあり)。この文書の発行されたのが1406年6月となっています(p.1613)。
 第14項(p.1622)には、「修道僧の目さえもが、女性を見ることによって汚されることが無いため」という記述が出てきます。
 その前の、第13項(p.1621)には、宦官や少年の立ち入りを禁止している理由が記されていて、それは、「女性が、宦官や少年に変装して入山することのないため」とされています。」

 
 とのことです。猫についてはこの規則書には記されていません。仲間の牧師がどうやってこの規則書を入手したのか気になります。
 それにしても、自然に反した戒律だなぁ、という印象をぬぐえません。

※「教えて!牧師さん」は、駆け出しの牧師Stephanが、
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タシロセさんからの質問「マルコ10:29-30の”父”について」

「教えて!牧師さん」22

■クリスチャン年齢から言って、とっくに理解しておかなければいけないことかと思いますが、この場を借りて質問させて下さい。
 マルコの福音書10章29,30節で、
 「29 わたしのために、また福音のために、
     家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
  30 その百倍を受けない者はありません。
     今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、
     後の世では永遠のいのちを受けます。」
 とありますが、何故、29節にある父が、30節では抜け落ちているのでしょうか?
 よろしくお願いします。

 タシロセさん、こんにちは。
 お返事が遅くなりまして、申し訳ありません。

 この箇所を理解する上で、補足としては、「捨てる」と訳されている言葉は、「置く」「残していく」とも訳される言葉であることをお伝えしておきたいと思います。
 家族を大切にすることは、クリスチャンにとっては、基本です。
 しかし、イエス・キリストこそ、最優先されるべき存在であって、もしもキリストに従う事が家族を置いて行かなくてはならない、というような事態(家族から信仰故に勘当される、など)には、キリストを選ぶという事になるのでしょう。

 さて、ご指摘の通りに、29節に列記されている人間関係(と所有物)の中で、30節では「父」が抜けていますね。
 これについては、色々な解釈が世にはあるのかもしれませんが、私としては「父」はすでに受けているから、と理解しています。
 すべての者の父と呼ばれるにふさわしい神が、キリストによって、私たちの父となって下さる所から、クリスチャンの歩みは出発しています。いや、父を得たからこそ、私たちは何かを失う事に対して勇気を持ちうるのではないでしょうか。

 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、
  --事実、いま私たちは神の子どもです--
  御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」
   第一ヨハネ3:1


 お答えになったでしょうか。
 クリスチャンを長くされていても、牧師であっても、分からない時は分からないものです。語り合いながら、聖書の奥深さをご一緒に味わって参りましょう。

 また、いつでもご質問下さい。

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Marさんからの質問「マタイの福音書の系図で、アブラハム~イエス様までは四十二代?四十一代?」

「教えて!牧師さん」21

■アブラハム~イエス様までは、何代ありますか?
 ネットで調べると42代と書いてあるのですが、マタイの福音書を読むと42代ありませんでした。数え方が間違ったかもしれません。ですから、実際には何代目かを教えてください。教えてください。


 Marさん、こんにちは。
 ご質問ありがとうございます。
 読み飛ばされがちな系図を、ちゃんと数えてみられたんですね。
 マタイの福音書1:1-17の系図、数えてみると四十一代であったと思います。
 でもそうなると、17節と合いませんよね。

 「それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、
  ダビデからバビロン移住までが十四代、
  バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」
   マタイ1:17


 実際数えてみるとバビロン移住(サラテル)~イエス様までが十三代に思えますよね。
 十三代なのに、十四代と記してあるのはなぜなのでしょう。
 マタイは元取税人(当時の取税人は不当な課税をしていました)だから、水増しはお手の物だったのでしょうか。
 いや、真面目に考えると、計算が立つマタイが、そんな間違いをするとは思えません。
 
 実は、11節のヨシヤとエコニヤの間には、エホヤキムという王が省かれています。エコニヤがダビデ王朝の終焉なので、エホヤキムではなくてエコニヤの名が記されたのかもしれません。この「エコニヤ」が「エホヤキム」と記されていたら、バビロン移住はサラテルからではなくて、エコニヤから数えることになるので、この系図は問題なく十四代×三期=四十二代になることになります。

 これ以上のことは残念ながら今の私には分かりません。しかし、おそらく当時のユダヤ人にはこの系図の表記で問題なかったのでは?と思われます。
 教えて!他の牧師さん、と言いたい気分ですが、11・12節のバビロン移住前後の記述にカギがありそうだと思います。

■実際には、全部で四十六代はありそうです。

 さて、実はエホヤキム以外にも、系図には載っていない人物が少なくとも四人はあります。
 ですから、アブラハムからイエス様までは少なくとも四十六代はあったはずです。
 なぜ、マタイが十四代にこだわったのか、というと、これも諸説あります。
 やはりユダヤ的な感覚が背景にあったと思われますので、現代の私たちには正確には分かりません。

 ダビデ王の名前はヘブル語でDWDとなります。(母音は表記しません)
 それぞれのアルファベットに対応する数字が4、6、4となり、合計14になります。
 こういった数字的なものも当時は重要であったようです。また、マタイの福音書は「7」へのこだわりが指摘されています。14は7の倍数ですね。

 当時のユダヤにおける系図のあり方については、まだ分かっていない部分がありますが、今後の識者の研究に期待したいと思います。
 
 ずばり解答、というわけにはいきませんでしたね。
 ごめんなさい。

 またの懲りずにご質問下さい。

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にゃおうさんからの質問「もし明日、クリスチャンでない家族や友人が亡くなってしまったら、と思うと・・」

「教えて!牧師さん」20

■もし明日、クリスチャンでない家族や友人の誰かが亡くなってしまうとしたら、天国に行けないし、きっと後悔すると思います。どうしましょう?実は切実に悩んでます。

 にゃおうさん、こんにちは。お返事が遅くなってしまいごめんなさい。

 大切な悩みをお伝え下さり、ありがとうございます。
 そして、クリスチャンなら誰でも抱える思いでもあると思います。

■クリスチャンでないと天国に行けないのか?

 まず、このことを整理しておきたいと思います。

 クリスチャンは死後も神様と共に歩む(天国)ことは、確実に約束されています。
 では、クリスチャンでなければ(洗礼を受けていなければ、教会に通っていなければ)神様のいない場所(地獄)に行くのかどうか、というと「分からない」部分もあるように思っています。
 幼くして召される子どもや、キリスト教が伝えられていない地域の人などが、「知らなかった」ゆえに自動的に地獄に行く、と言う事ではないだろう、と思われるのです。

「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、
 律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
 彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。
 彼らの良心もいっしょになってあかしし・・」
  ローマ2:14-15


 このように、聖書に触れる機会が無かった人であっても、生まれ持った良心が、その人をさばくのです。
 ですから、もしも生涯において、善しか行わない人がいたとしたなら、その方は神のもとに行くことも、またあるのかもしれません。
 でも、そんな人が果たしているだろうか・・と思うと、この可能性はかなり低そうですね。

 また、クリスチャンではないと見えても、実は心でキリストを信じてらっしゃる、という場合もあるように思います。日本人の中には、案外そういう方がおられるのかもしれないな、と思う時があります。
 たとえば、家族の誰かがクリスチャンだったりして福音を耳にする機会があって、何度か教会に出入りしたり、聖書を読んだりして、自分だけでこっそり「信じます」と祈られている、とか・・。
 こういう方が亡くなった場合は、葬儀の形式に限らず、神様はやっぱりその方をきちんとご自分のそばに導かれるのでしょうね。
 でも、やっぱりはっきりと公けに信仰を告白して下されば、残された者には希望があるわけですから、告白を聴きたいところですね。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
 永遠のいのちを持つためである。」
   ヨハネ3:16 


 キリストの十字架の赦しを信じる人は、ひとりとして滅びることがない。これが聖書の約束です。
 この救いの知らせは、全世界のすべての人に差し出されています。
 愛する誰かが、その救いを受け取った、という事を見届けることが出来る時、私たちの喜びはあふれます。しかし、それ以上に、神ご自身が喜ばれるのです。
 ですから、クリスチャンは愛する者に確かに福音を届けたい、と強く願う者ですし、それが出来ていない状態では、にゃおうさんのように、不安を感じたり、後悔するのです。
 自分の救いの約束がはっきりしているだけに、なおさらです。

■伝えるべきです。(できることから)

 ですから、にゃおうさんが後悔しないためには、「伝えること」がやはり大切です。

 「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。
 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。
 聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。
 宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」
  ローマ10:13-14


 伝え方には、色々あります。牧師がするように伝える事は、時として困難かもしれません。
 でも、出来るところから始めればよいのです。
 いくつかヒントを記してみますね。

 1.自分がクリスチャンであることを知ってもらう。
  これだけでも、十分“伝道”ですよ。その人は、キリスト教に興味を持つ時に、あなたに聴いてきますから。
 2.祈る。
  これは、一番大切なことです。その人の救いのために。伝えるチャンス・伝える言葉が与えられるように。
  祈っていれば、きっとチャンスも与えられます。語るべき言葉も。大丈夫です。
  人の救いに関わるなんて、ドキドキする大仕事ですが、神様は祈る人を用いられます。
 3.自分が神様を知り続けること。
  あなた自身が、神様からの愛や喜びを受けて生きていれば、身近な人は敏感にそれを察知します。
  神様と繋がっていれば、無言の証しが伝わっていきますよ。自然体で大丈夫です。
 4.みことばを送る。
  たとえば、メールや手紙の中で、おりにかなった聖句を添える、というのはいかがでしょうか。
  キリスト教書店に行けば贈呈用の聖書、あるいは読みやすい聖句集などもあります。
  そういう聖書のことばの一つひとつは、その人の心に蒔かれた種のように残り、
  思わぬ時に芽吹いたするものです。
 5.あなたの話をすること。
  聖書の教えについての体系的な話をしなさい、と言われると、「自分にはちょっと・・」と思ってしまいますが、
  自分がクリスチャンになった体験談なら、話し易いものです。
  そして、実は聴いている人にとって、それはとっても興味深い事柄なのです。
  にゃおうさんにしか、話せないメッセージがあるのです。それはあなた自身の証しです。
 6.教会に連れていく。
  敷居の高い教会ですが、実は誰でも歓迎されるのはご存じの通りです。
  教会でやっている色々な集まり、クラス、牧師の空き時間等、何でも利用してしまいましょう。
 7.教会で祈ってもらう。
  祈られずに救われた、という人に会ったことがありません。
  にゃおうさんの救いにも、きっと背後にどなたかの心かの祈りがあったと思います。
  祈祷会などで、ぜひ祈って頂きましょう。
 8.救うのは神様です。
  結局のところ、人の心を開かれるのは神様の働きです。人間の力技でそれをするなら、それは洗脳です。
  ですから、祈り深く、心を燃やしながら、家族や友を愛しつつ、出来る範囲で種まきしながら、
  今日と言う一日をきちんと歩むことだと思います。

 二つのエピソードを紹介したいと思います。
 ある牧師が、お祖父様を天に送りました。しかし、きちんと福音を伝えることをせずにいました。
 泣きながら、「皆さん。生きている内に語らなくては・・・」と訴えられたことでした。
 自分のような後悔を、他の人がしないように、という切実なメッセージは、ずっと心に残っています。

 また、ある方がクリスチャンになられたのですが、その時すでにお母様は複雑な話が出来ない状態でした。また、その方も聖書の知識は、まだ初歩的な段階でした。
 その方はお母様の耳元で「イエス・キリストっていう方が待っているから、その人のところについて行くんだよ!」と伝えたそうです。私は、こういう伝道もあるのか、とはっとさせられたことでした。

 この二つのエピソードは、「今できることは何か」という事を私たちに問いかけています。
 今できることがあるはずです。
 そして、今の最善をする時、私たちには平安があります。

 これは、にゃおうさん一人の問題ではありません。
 クリスチャン人口が1パーセントに満たないという、宣教地日本に住む、すべてのクリスチャンの切実な課題であり、祈りです。

 にゃおうさんが、そのことから目をそらさずに受け止めておられることをうれしく思います。
 神様に期待しつつ、祈るところから始めてまいりましょう。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。
  わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
  それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、
  また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、
  父があなたがたにお与えになるためです。」
    ヨハネ15:16

 お答えになったでしょうか。
 またいつでもご質問下さい。

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| 教えて!牧師さん。 | 22:47 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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