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@tnk_readyさんからの質問 「聖書の”従う”とか”仕える”とかいう言葉が不平等な感じがして苦手です。」

「教えて!牧師さん」17

■聖書の中に、従うとか仕えるとかいった表現が出てきますが、不平等な感じがして苦手です。
 神様に仕えることに異論はありません。ですが、人に仕えるという場合、自分を卑下していたり、貶めている事もあるような気がするのですが・・・。


 tnk_readyさん、ご質問ありがとうございます!
 お返事が遅くなってごめんなさい。

■「仕える」=「愛」
 確かに、人に「従う」というのは追従を連想しがちですし、「仕える」というのも隷従をイメージする言葉ですね。
 でも、聖書で「人に従う」「人に仕える」という場合は、「愛」と置き換え可能な用語として用いられるのです。

 「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。
  ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」
   (ガラテヤ5:13)


 愛の持つ自己犠牲性、一方性、愛する対象への敬意というような側面を表す時に、「従う」「仕える」という表現になるのではないか、と思います。
 そして、これは追従や隷従とは異質のものです。
 「(愛は)不正を喜ばずに真理を喜びます。」(第1コリント13:6)
 とあるように、神の前に正しくないことは、はっきりと指摘するべきです。
 「あからさまに責めるのは、 ひそかに愛するのにまさる。」(箴言27:5)
 とも記されています。
 つまり、相手に忠告したり、責めることと「仕える」ことが両立し得るということです。
 これは、教師が生徒に「仕える」のと同質です。
 大切なことは、愛と敬意を持って、相手の最善のために献身する、ということです。

■束縛と自由
 ですから、愛と敬意をもって、相手に「仕える」「従う」ということは、愛のわざであって、卑屈になることではありません。
 かえって、自由な心を持った人のみに許される献身です。
 というのは、私たちは実際には愛をもって誰かに仕えることができないくらい、自己中心な性質(罪)に束縛されている存在なのではないでしょうか。それを罪の奴隷、と聖書は言います。
 
 そういう私たちの罪を身代わりに背負い、イエス・キリストは十字架にかかって下さいました。
 つまり、キリストが私たちに「仕えて」下さったのです。
 神である方なのに・・・。

 私たちは、罪を悔い改めるならば、誰でも赦しを受けることができます。
 神の子どもとしての自由を与えられました。
 そして、神のことばを聴き、従って生きるとき、本来の自分らしく生きる自由をクリスチャンは味わうことができるのです。

 その自由の使い道として、不思議なことにクリスチャンは、「仕える」ことに向かっていきます。
 へりくだり、誰かのために犠牲になることを望むのです。
 自由を得たのに、不自由になろうとします。
 そこに、喜びを見つけるからです。
 誤解を恐れずに言えば、そこにしか人が最終的な喜びを見出す道は無いように思っています。

 キリストの十字架は、私たちの救いであると同時に、私たちの模範なのです。

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、
 へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」
   ピリピ2:3-8


 キリストの愛が私たちの心を満たす時、その恵みが結ぶ実りとして、「愛をもって仕える」「従う」という行動が生まれます。
 この深い実りの味わいを、ご一緒に見つけていけるといいですね。
 その近道は、滋味あふれるキリストの愛を聖書から受け止めることです。

 愛されてまいりましょう。
 愛するために。

 以上、お答えになったでしょうか。
 不明な点などありましたら、何なりとご質問ください。

※「教えて!牧師さん」は、駆け出しの牧師Stephanが、
自分の勉強のために受け付けている質問コーナーです。
質問はブログ右側のメールフォームよりお送りください。

| 教えて!牧師さん。 | 22:37 | comments:4 | trackbacks(-) | TOP↑

COMMENT

ありがとうございます。

「愛をもって互いに仕えなさい」…追従でも隷従でもないですね。
聖書の中での言葉の意味が分かって安心しました。

また疑問が生まれてくるのですが。
実はキリスト教が苦手だった理由の一つに、
「犠牲」の精神があります。

犠牲を裏返すと、そこには自己愛だったり陶酔だったり、
そんな感情が潜んでいることがあると思っていました。
実際、自分の中にもあります。
人の為と言いつつ、結局、自分のことしか考えていないのではないか…。

人が神様のように、他人を愛するのは難しいです。
(私が自己中心的だからなのでしょうけど…)
「仕えることの喜び」の為に人に仕える、のではなくて、
仕えることに喜びを見出せるようになるには、
実際にどうしたらいいのでしょう。

神様との関わりの中で分かってきますか?

| tnk_ready | 2010/01/16 12:49 | URL | ≫ EDIT

⇒tnk_readeyさん

 御質問第二弾、ありがとうございます。

 まず、キリストの模範を考えてみたいと思います。

 キリストの犠牲には、見返りを求める思いや、自己実現、自己陶酔は見出せません。
 キリストの心を支配していたのは、人への愛だけであったと言う事ができます。それ以外の目的はなかったのです。
 愛以外で、キリストの生涯と十字架を説明することは不可能です。愛は、対象を手段ではなく目的とします。

 ですから、ここでtnk_readyさんが尋ねられているのは、「人はキリストのようになれるのか」ということだと思います。
 これについては、パウロはこのように記しています。
 
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
   ピリピ3:12-14


 イエス・キリストを見つめ、この方のような愛の生き方を目指すように、とキリストの方で私たちをとらえて下さったのです。
 そのキリストとのつながりの中で、私たちもまた、変えられていくことができるのです。
 このことについては、こちら↓の「クリスチャンの成長について」で記しています。
 http://stephan4.blog35.fc2.com/blog-entry-1944.html

 具体的に言えば、「イエス様ならどうされるだろう。」「イエス様は私にどうして下さっただろう」ということを思う事は、有益だと思います。
 その時に、私たちは、自分のためではなく、相手のため、あるいは神様に喜んで頂くために、それまでとは違った行動を取れるように思います。

 tnk_readyさんがおっしゃることはよく分かります。
 善を行う自分にこだわっている自分を見つめる虚しさってありますよね。どこまで行っても、人を目的ではなく手段にする自分に悲しくなることもありますね。
 けれど、私たちが善を行おうが行わまいが、私たちを見つめてくださり、愛して下さる神との関わりの中で、人はやはり取り扱われていきます。

 これからも、自分の心の醜さや、深い自己中心の根っこに失望することがあるかもしれません。
 しかし、その都度、そんな自分をイエス・キリストは愛し続けて下さっていることを思い出して下さい。そんな私のために、キリストが何をして下さったかを。
 自分の現実と神の愛の現実を知るほどに、私たちは恵みによって取り扱われていきます。

 人は変わることが出来るのです。
 自分の努力ではなくて、神の恵みによって。

 幸いなことに、そのように無意識の内に犠牲的な行動を取れる方達に、私は会ってきました。
 そういう方にお会いする度に、神の存在の現実を思わされます。
 そして、そういう方はいつも、イエス・キリストを見つめ続ける人たちでした。

 あるがままの自分で、祈って参りましょう。
 「あなたのように、人を愛する者になりたいです。そのためにも、あなたのことをさらに教えてください。」と祈って下さい。
 神様はきっと、その祈りを軽んじられません。

 tnk_readyさんが今、神との関わりを始めていらっしゃる以上、御自分では気付かれなくとも、すでに何かの実りが結ばれ始めていると信じています。

 ただ、気をつけてください。
 私たちが自分の実を誇り、大切な幹とのつながりを忘れる時、私たちは力を失ってしまいます。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。
 わたしの愛の中にとどまりなさい。」
   ヨハネ15:9


「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」
  ヘブル12:2-3


 お返事をしながら、私自身が教えられています。
 自分はどれほど、見返りを求めずに人を愛しているだろうか。純粋な犠牲が、私の人生の内にどれだけ見出せるだろうか、と。

 それぞれ、今いるところから一歩ずつ、キリストの愛を学びながら歩んでまいりましょう。
 いつか、天の御国で、神の前に立つその日まで。

| Stephan | 2010/01/16 18:00 | URL | ≫ EDIT

ありがとうございます。

とても分かりやすく、
我ながら、何度同じ所で躓くんだろうと、
少し笑ってしまいました…。

でも躓いては祈り、また躓いては祈り、
キリストの愛をいつも忘れずに、
少しでもその愛のあり方に近づけたらと思います。

それにしても、パウロは情熱的ですね。
とても励まされます。

| tnk_ready | 2010/01/16 19:14 | URL | ≫ EDIT

⇒tnk_readyさん

 頂いた質問を突き詰めていくと、本当に信頼に値するものが、世に存在するのか、という問いに突き当たるように思います。

 イエス・キリストという方が実在されたこと。キリスト教信仰を支えているのは、まさにそこなのだなぁと思わされます。

 根拠があること、それはとても感謝なことですね。

| Stephan | 2010/01/17 07:23 | URL | ≫ EDIT















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