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私はどの子でしょう・・の答え。

 昨日の写真クイズの答えは、皆さん(含ツイッター)正解の、「右端の子」でした。
 なんで、みなさん分かるのでしょう・・。

iphone_20101115185916.jpg

 この写真、私としてみれば、本当に当時の自分らしさが出ているな、と思います。
 一人だけカメラを見ていませんね。
 そして、弟の頭を押さえつつ、母親に寄り添っています。

 それに比べて、兄は私の後ろで堂々と前を向いていますね。

 私は、実はとても愛情に飢えていた子どもでした。
 三人兄弟の真中の私は、自分の存在を主張することばかり考えていました。
 そうしないと、愛情は私の頭の上を軽く過ぎ去って、兄か弟に注がれてしまう、と感じていたのです。

 しかし、この後弟は大きな病気をし、私は祖父母の家に預けられることとなり、私は一層家族の一員として居場所を見失っていきます。

 祖父母の大きな家での生活の事はわりとよく覚えています。
 荷車に載せられて、祖父母と一緒に柿を収穫に行ったこともありました。
 祖父母としてみれば、孫を喜ばせてやろう、という思いもあったことでしょう。
 しかし、帰り道の夕方、泣きたいぐらいに切ない気持であったことを覚えています。

 小学生になった私は、チック症になりました。
 また、鉛筆がばらばらになるまでかじり続けるので、ビーバーとあだ名されました。
 服もかじるので、セーター等は袖口がぼろぼろになってしまいました。
 どうすれば、人から愛されるのか、そのことに常に興味は働きました。
 手軽に人からの注意を引く方法は、「嘘をつくこと」でした。両親から叱られても、嘘をつく癖は直りませんでした。

 こう書くと、私が機能不全家庭で育ったかのような印象を受けますが、両親に問題があったとは思いません。
 精いっぱいに子ども達の事を考えてくれる両親であったと思います。
 しかし、なぜか私の心は傷だらけで、疎外感を感じていました。

 中学二年生の時に初めて、死について考えました。
 自分の心の問題が、愛に関するものであることを悟ったのです。
 そして、真の愛、すなわち私という存在を他の一切のものよりも尊重し、一切を犠牲にしてくれるような愛は、少なくとも私には向けられていない、と知った時、「生きることに価値はない」と気づいたのです。
 それは、恐ろしい気づきでした。しかし、幼少のころからの悲しみの理由がやっと分かった、という瞬間でした。

 しかし、その次の瞬間、まったく意外な気づきを得ました。
 「私がいる」という神の語りかけを心にはっきりと意識したのです。
 子どもの時から教会に行っていました。しかし、それまでの知識は頭だけの理解でした。
 しかし、聞いてきた聖書のことばが、その時生きたことばとして、語り出したのです。

 泣きぬれていた私は、この第二の発見に驚き、泣きやみました。
 それが人生の転機でした。

 人からの愛を求める生き方から、人を愛することに喜びを感じる生き方が始まりました。
 そして、驚きました。
 愛を求めていた時は、あれほど人は私から遠ざかっていくのに、与える生き方に導かれた時、私は多くの人に囲まれていたのです。



 これは大学生時代の私。
 やはり右端です。右端、好きなのかな。

 教会を中心にして、素晴らしい青春時代を過ごしました。

 今にして思うのですが、子ども時代の孤独が無ければ、私は神に出会う事は出来なかったかもしれません。
 ならば、私の子ども時代は、やはりあれで良かったのだな、と心から思います。

 両親にとっては、私はどう育てていいか分からない子ではなかったかと思います。
 私の事では大いに悩ませたことでしょう。
 心から感謝しています。

 二枚の写真から、色々なことを思い出しました。
 そして改めて、私に出会って下さった神、一人一人に美しい御計画を持っておられる神を、誉め賛えたいと思います。

「わたしに聞け、 ヤコブの家と、イスラエルの家の すべての残りの者よ。
 胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
 あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。
 わたしはそうしてきたのだ。
 なお、わたしは運ぼう。
 わたしは背負って、救い出そう。」
  イザヤ46:3-4

| いい一日でした。 | 21:13 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

COMMENT

主を引き寄せるもの

「あなたが悲しんでいるとき、イエス様はそのあなたの悲しみに引き寄せられでもするかのように、あなたのところに来てくださり、あなたのそばに立ってくださるのです。
『かわいそうに思い』と書いてあります。このことばは相手を思う同情に強く心を動かされるという意味なのです。イエス様はただあなたにああかわいそうだなと軽い関心を持たれるのではないのです。もういても立ってもいられないような思いで、今にも爆発しそうな愛の思いで、あなたに近づき、声をかけられるのです。・・・あなたは今悲しんでおられますか。その悲しみはこの母親のようにだれにでも見えるような悲しみかもしれません。あるいはだれにも分からない、それだけになお心が痛む、そんなことはたいしたことではないと言われる、それだけにあなたにとっては耐えがたいほどの悲しみかもしれません。しかし、どちらにせよ、イエス様はあなたの悲しみをご覧になって、心を動かし、あなたに近づいてきてくださるのです。そしてあなたをその悲しみから救い出してくださるのです。目を上げて、そのイエス様を見上げようではありませんか。
「イエスと出会った人」黙っていられない幸せをあなたに(羽鳥純二著)より抜粋。

ちょうどこの箇所を思い出しました。

| tashiroSe | 2010/11/17 18:29 | URL | ≫ EDIT

素敵な文章の引用、ありがとうございます。
まさか、これ全文iPodで手打ちされたのでしょうか?!

愛しているのに届かない時って、本当に切なく、苦しいですよね。
私の両親も辛かったと思います。

何よりも神様は、お辛かったと思います。
今もなお、私は神の愛が十分に理解できているとは思いません。
あまりにも豊かな、深い愛で愛されているからです。

幸いな恵みの流れの中に生きる歩みを与えられて、ただ感謝です。

| Stephan | 2010/11/17 23:18 | URL | ≫ EDIT















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